1945年、大きな地震が浜松一円を打ちのめし、本田の工場や設備もほとんど壊滅しました。
その間も連合軍の飛行機は日本のほかの場所でさらに酷い惨状を引き起していました。
日本の降伏後、自動車会社の子会社になるつもりのない本田は、トヨタから離れる決心をしました。
ピストン・リング事業の残り物を12万5千ドルで売却し、当時使われていたスピードの遅い水平式シャトルに代るスピードの速い回転式織機の製造に取りかかりました。
しかし製造段階に達する前に資金が底をついてしまいました。
それは1947年初めのことで、彼は日本経済とともに再びもとの木阿弥となったのでした。