1938年、本田は使いものになるピストン・リングを作るのに成功しました。
しかし5万ユニットの注文のなかから、トヨタは50個のサンプルを抜き出し、これを不良品としてはねつけた。
当時、トヨタは織機事業のほとんどを売却して軍用トラックの製造を始めたばかりだった。
本田はしかたなく製品をそれほど要求の厳しくない市場に持込まざるをえなかった。
やがて2年後の1940年にトヨタの品質要求基準に合致するものを作ることができました。
しかし彼は注文に応じることができませんでした。
戦争に備えていた政府は新工場用のセメント購入を許可しなかったからです。